ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル:「メサイア」

Georg Friedrich Haendel Gospel in Classical

引きつづき、曲の内容を中心に「メサイア」を可能なかぎりクローズアップしてみたい。
決して完全な曲とはいいがたいにもかかわらず、その魅力によって音楽ファンの人気を獲得しているオラトリオ「メサイア」。そこで歌われる歌詞も、最初から最後までをとおして見れば決して一貫しているとはいいがたい。出典はむろん聖書であるが、まとまったある個所を引用したのではなく、旧約聖書ヨブ記から新約聖書ヨハネの黙示録にわたるかなりの広範囲から引用されている。いわば聖書のあちこちからエッセンスを少しづつだけとりだしているといった感じである。この少しづつだけとりだすという作業で、はたして読者,聴者にその本質を理解させるだけの文面を作りだすことができるのかという疑問もわいてくるが、素読みしてもわかるとおり「メサイア」の歌詞は読者すべてを納得させるような不思議なまとまりをもっている。一例ではあるが、第3部冒頭の第45曲目、ソプラノ歌手によって歌われる名アリアを見てみよう。ここでの歌詞は、旧約のヨブ記と新約のコリント前書というまったく別々の個所からとられているが、ヨブの「私のあがない主は今も生きておられる」という言葉とコリント前書でのパウロの文章「キリストは死者のなかから復活した」とが内容的にぴったりとあてはまってひとつの文章を構成している。つまり、聖書のあちこちからとりだした文章を内容をそこなわせずに再編したものが「メサイア」の歌詞なのである。
この驚くような再編作業をしたのは、イギリスの文学者チャールズ・ジェネンズである。彼はよほど聖書を咀嚼(そしゃく)していたのだろう、ヘンデルに歌詞を提供しようと思いたち、「メサイア」(救世主)出現の預言にはじまり、その降誕、贖罪、受難、死、復活、昇天、そして即位に終わる」という大まかなテーマを決めただけで、できるかぎり最短の文章で聖書を最大限理解できる歌詞を編みあげることができる大文学者であった。ゆずり受けたヘンデルも、この名歌詞に音楽的霊感を刺激されてこれだけの名曲を作ることができた。したがってオラトリオ「メサイア」は、ジェネンズとヘンデルの共同作業で仕上った作品といえるのである。
さて曲全体にはいくつかの特徴がある。それをおさえておいたほうがより理解が深まる。
まず、曲は3部構成になっている。それぞれのテーマは、第1部「救世主出現の預言・降誕」、第2部「救世主の贖罪・受難・死・復活・昇天」、第3部「人類の死後の復活・救世主の即位」といったものである。第1部では、単に音を鳴らすにとどまらず音の形によって視覚的な効果をあげている。というのも、風景など事象を描きだす場面が多いからである。また、これは主にレシタティーフで顕著であるが、メロディが「ドミソ」の和音内におさまる分散和音で歌いはじめられることが多い。第2部は救世主の波乱万丈の一生を描くので、さすがに劇的な効果にみちている。ここでヘンデルは、事象を描いた第1部に対して感情などの内面を多く描くことによって劇的効果を高めている。その他、全体的な特徴として覚えておきたいのが、表現は悪いかもしれないが、聴かせどころのだし惜しみである。ヘンデルは絶対音量にしても感情的な演出にしても、大きな場面をいきなり披瀝(ひれき)するのではなく、ながい助走期間を作っておいて次第にクライマックスにもっていくという手法をとる。例をあげると、最初の合唱曲である第4曲目では短いとはいえない序奏と中音域のアルトの合唱という前段階のあとに合唱が響きわたる。別の例では、演奏がはじまってながいあいだソプラノ・ソロがでてこないことがあげられる。こうすることによりクライマックスがいっそう引きたち、聴者は期待と感動をもって曲を鑑賞することができる。
主な特徴としては以上のようなものをあげることができる。
では宝石のようなメロディの数々を一曲づつ見ていくことにしよう。
(前半で書いたとおり、歌手陣に対する伴奏楽器はピアノをはじめとして実にさまざまなスタイルをとることができるが、ここではもっともポピュラーなオーケストラ伴奏による解説とした)

●第1部
1 序 曲
オラトリオであれ組曲であれオペラであれ、曲全体のイメージを凝縮させる「序曲」には長調が用いられるケースが多い。「メサイア」の場合も、後に押し寄せる希望と歓喜を考えると「王宮の花火の音楽」のような長調でもよかったのではないかとも思われるのだが、あえて短調の序曲をもってきたところに「メサイア」の序曲らしさがある。長調の序曲を提供しておいて、結局は明るい終結にもっていくのではなく、まずキリストの苦難の一生を象徴的に聴き手にイメージさせておいて、曲を追うごとに明るさをにじませるという方法をとるわけである。キリストが人類に与えた希望と歓喜はそれほど簡単にもたらされたものではないということを直感的に感じることができる。
2部形式によっている。付点リズムのゆるやかな序奏部と活発な主部からなり、フランス風の形式といえる。明るい曲ではないが少なくとも悲劇的な暗さではなく、どこかしらウィットさをもつ浮きたつような短調の序曲である。

2 テノール「なぐさめよ、わたしの民を」
3     「すべての谷は高くされ」
序曲のホ短調を受け、その同種調であるホ長調に移る。その移りぎわでとても朗らかな印象を与える。序曲を締めくくるのは短和音であるが、その主音であるホ音に続いて、第2曲の最初の8分音符4つ(ト♯)と4分音符1つ(ロ)で長調の「ドミソ」を形作っている。「なぐさめる」というわざを地でいくような歌である。つづく第3曲ではさっそく視覚的効果のある音楽が展開される。「谷valley」「高くされexalted」の音程が引きあげられ、各地の谷間が次々と引きあげられる様子が見えてくるようである。

4 コーラス「そして主の栄光が啓示され」
外声部(ソプラノ・バス)ではなく内声部(アルト・テノール)のテノールに「メサイア」の歌いはじめを受けもたせたのと同じ効果をねらい、この合唱曲も歌いはじめはアルトである。そのため、曲の終盤の盛りあがりがいっそうきわ立つことになる。

5 バス「万軍の主はこのようにいわれる」
短いけれども力強い短調の序奏が聴者を引きつける。つづく無伴奏のバスの一節とともに分散和音でできている。力強さと分散和音が偉大なる主の御言葉を、ニ短調の調性がこれから起こるであろう畏(おそ)れ多い主のわざをあらわしているかのようである。主の言葉は「天と地と海と陸をうち震わせる」というもの。「うち震わせるshake」の単語が、恐ろしいほど引きのばされて本当に震えながら歌われる。

6 アルト「しかし誰が耐えるのだろうか」
明確な緩-急-緩-急という形をとる。世を洗い清める主のわざ(急の部分)とそのわざに耐えることができるのかという疑問(緩の部分)との対比が絶妙である。緩の部分が終わった途端に、トレモロにもちかい弦楽器のこまかい動きにのって「For he is」以下が歌いだされるわけだが、「洗い清める」わざをよくあらわしている。超スピードの演奏もあり、演奏者によって雰囲気がずいぶんことなってくる部分である。なお、バス・ソロとする演奏もあるが、この曲がもつ危機感を味わうには、アルト・ソロがふさわしい気がする。

7 コーラス「そして彼は清める」
「レビの子らを清める」状況が描かれるのだから長調でもよいかと思われるが、短調にすることにより、ちかづきがたい、一種の高貴な清めが行なわれているように感じる。

8 アルト「見よ、乙女がみごもって」
メサイア」全編を通じて何度となくでてくる「見よbehold」の単語がはじめて発せられる。この単語は、おもにレシタティーフのなかで、低弦の持続音のうえに、場合によってはチェンバロのグリッサンドをともなって荘重に歌われる。そしてbe-holdと分割され、それぞれに低音-高音と和音があてられる(ここでは「be」に主音、「hold」に長3度音)。こうすることにより、「look」や「watch out」あるいは後にでてくる古語の「lo」などとは明らかに違う雰囲気をもつ「人間わざではない、神々しいできごとを垣間見る」‘behold’が胸に迫って聴こえてくる。この個所では、いうまでもなく乙女マリアがキリストをみごもった驚くべき史実が語られる。聴き手もこの史実を‘behold’すべきである。

9 アルト-コーラス「よい知らせをシオンに伝える者よ」
前曲に引きつづきアルトが喜びをもって歌いはじめる。序奏部でもしめされる、アルトの冒頭の親しみやすいメロディは、人類が手にした大きな幸せを素直に喜べるものである。このメロディは曲中なんどもあらわれ、よい知らせを携えた者へ「声をあげよ」「恐れるな」「訴えよ」「頭をあげよ」「輝け」と次々に発せられる言葉の勢いに拍車をかけるはたらきをしている。もうひとつ注目すべきことは、アルト・ソロの後半部分に顕著にあらわれるが、音符によって山の形が作られ、視覚的にもシオンの山を思いおこさせる。シオンの山に登っていくような音形も一目(聴?)瞭然である。

10 バス「見よ、暗闇が地をつつみ」
11   「暗闇を歩いていた人々は」
両曲とも第一印象は悲劇的であるが、決して絶望に終わることはない。第10曲、こんどの「見よbehold」は属音-主音となっている。暗闇が地をつつんではいるが、私たちははるか天上に輝く主のたえなる光を見るべきである。つづく第11曲、前曲にもまして暗闇が克明に描きだされる。バス・ソロと低弦がユニゾンで作りだす臨時記号(♯・ナチュラル)だらけの半音階進行の音楽は、人間が真っ暗闇のなかを左右によろめきながらさまよっている状態が本当にみごとに描かれている。しかし真っ暗闇では終わらない。「大きな光a great light」で音程が高く引きあげられ、主の光の到来をしめす。

12 コーラス「神のひとり子が私たちのために生まれた」
キリスト誕生の曲である。その完成度、そして「ハレルヤ」にも似た輝かしい響き。この曲が第1部のクライマックスと見ていい。「Wonderful,Counsellor」の部分で心おどらない人はいないだろう。この曲の明るさは尋常ではない。それもそのはずで、このメロディはイタリア語による二重唱カンタータからヘンデルが引用したらしい。

13 ピファ(パストラル・シンフォニー)
キリストが誕生した夜、羊飼いたちが田園(pastral)でピッフェロ(piffaro=略してピファpifa)という笛を吹きながら羊の番をしている情景を描く器楽合奏(symphony)が「パストラル・シンフォニー」である。それをふまえて考えると、この曲がこの位置に挿入されていることは非常に意義深い。内容的には第12曲で合唱によって語られたキリスト誕生の状況を雰囲気として理解できるし、演奏会的には第12曲でもたらされた昂揚をひとまずここで落ちつけることができる。ヴァイオリン群の3度進行のメロディが羊飼いのピッフェロをよくあらわしている。4分の4拍子か8分の6拍子と思いきや、8分の12拍子をとっている。このゆるやかな拍子がなんともいえない静かな聖夜をイメージさせる。低音部に耳を傾けると、低音楽器の空虚8度の持続音が、どこまでも広がる田園風景を感じさせる。合奏曲としての「交響曲」という名前がついているが、オペラでいう間奏曲の役割をはたしている..


まったくの余談になるが、ベートーヴェンの「田園」交響曲について少し書きたいと思う。
周知のとおり、ベートーヴェンは第5番「運命」と平行して第6番「田園」を作曲した。作曲の経緯についてはいろいろな見かたがあるようだ。ひとつの時期に性格のまったくことなる曲を、いわば表裏一体のような考えで作ることを好んだからだ、といわれることもある。また、もともと人づきあいが苦手なところへもってきて難聴という障害も加わり、森や川など自然のほうへ目がむいたからという意見もある。たしかにそれも作曲の動機としては考えられる。しかし私は次のような作曲理由もあったのではないかと思う。
バロック時代にも「交響曲」は作曲されていた。もちろんこの時代にはベートーヴェンの時代のような大オーケストラは存在せず、「ピファ」で書いたとおり器楽集団による合奏を、合唱曲などに対比させて「交響曲」と呼んでいたわけである。そして、この「メサイア」のなかの「パストラル・シンフォニー」(日本語で「田園交響曲」)に代表されるように、キリストが誕生した当時の田園風景を描きだし、クリスマスの雰囲気をかもしだす交響曲はとくにこの音楽用語で定着していた。
この「田園交響曲」なる名前にベートーヴェンは目をつけた。そして、交響曲の分野にみずからの音楽理念を提示し、最終的には大曲を9つも発表して交響曲を一大分野にのしあげる彼は、ひとつ音楽界に定着しているこの「田園交響曲」の名前で曲を作ろうと思いたった。キリストの誕生を描く曲とはまったくちがう、身近にある実際の田園風景を描こうとしたのである。つまりバロックから名前だけを借りた「田園交響曲」、いわばパロディである。できあがった曲は、小川のせせらぎや嵐の情景などをとりいれて写実性が強く、各楽章に表題がついた、親しみやすい彼の代表曲となった。
ベートーヴェンはもともとこういうしゃれっ気をもっている人だった。曲に名前がついてくるのではなく、名前をもとに曲を作るという発想くらいはベートーヴェンならもっていたと思うし、またその程度の動機で大交響曲を作ってしまうところが彼のすごいところでもある。
これまで、専門家、非専門家、諸兄のご意見を拝聴してきて、このような考えには一度も出会ったことがないが、私が以前から気になっていたことなので、この場をお借りして書かせていただいた。

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