ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル:「メサイア」

Georg Friedrich Haendel Gospel in Classical

14 ソプラノ「羊飼いたちが野原にとどまっていたとき」
「そして、見よ! 主の天使が彼らに舞いおりて」
15     「天使が彼らにいった」
16     「するとたちまち」
ルカ書第2章に書かれている羊飼いたちへの天使の出現が具体的に描かれる。レシタティーフのため時間的にわずかだが、ヘンデルの描写力によって、天使の出現で地上人が恐れるおののく場面を想像するにはじゅうぶんである。注目すべきは、歌手のなかでは花形であるはずのソプラノの登場がこの14曲目までおさえられていたことである。そのためその歌声はとても新鮮に聴こえる。この後何曲かはソプラノ歌手にならうかのように高音域の曲がつづく。

17 コーラス「いと高きところでは、神に栄光があるように」
トランペットが加わった非常に高い音域で「高きところhighest」が歌われる。対照的に男性合唱と低弦により「地上earth」があらわされる。視覚的な効果に加えて、コントラストの妙がででくる。

18 ソプラノ「大いに喜べ、シオンの娘よ」
いよいよソプラノの本領発揮である。合奏群の明るい序奏につづいて、ソプラノが本当にうれしくてしかたのないようなメロディを歌う。この曲も例外なく聴く人の心をおどらせる曲である。「喜べrejoice」の「jo」の部分に連続した16分音符があてられ、まるでモーツァルトのオペラのようなコロラトゥーラを聴かせる。A-B-Aの3部形式をとっていて、Bの部分は静かでもの悲しい曲想になる。この喜びも苦しみの人キリストが教えた平和のおかげでもたらされたものであると歌われる。

19 アルト「そのとき盲人の目は開かれるものであり」
20 アルト-ソプラノ「彼は羊飼いのように群れを養われる」
この2曲により、キリストがこの世でなしてくださったとりなしのわざがしめされる。つまり、身体に障害のある人々をいたるところで癒し、さらにはその教えをもって信者に心の糧を与えた様子がしめされている。19曲目ではギュスターヴ・ドレの絵画「キリストの癒し」が目に浮かぶ。20曲目はマタイ伝11章に書かれているキリストの言葉「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」をしみじみと反芻することができる。

21 コーラス「彼のくびきは負いやすく」
第1部最後の曲である。このように軽い曲で締めくくることにより、第2部冒頭の「神の小羊」の重みが生きてくる。前曲でしめされたキリストのあがないのわざの結果、私たちが負うべき荷が軽くなったことを描く。したがってこの曲は非常に軽く、いくらか楽しい気持ちで演奏されなければならない。ところがこの曲はなかなかの難曲なのである。特にコーラスを歌った経験のあるかたならおわかりだろうが、くり返される「easy」という単語の歌いにくさからくる苦痛、各パートによってくいちがっている休符と歌いだし、それに多用されるf(強く)とp(弱く)、アマチュアによって演奏されることの多い「メサイア」のなかで、とくにコーラス泣かせとして知られる。「easy」に聴かせようとすればするほど重くなってしまう皮肉な曲である。

●第2部
22 コーラス「見よ、神の小羊を」
第2部ではまずキリストの受難のシーンが描かれるが、この第22曲はその雰囲気を作るにふさわしいものである。2部の序曲という感じも与えてくれる。最初から最後まで一貫している規則正しい歩調は、キリストにつきしたがっていく使徒のあゆみ、あるいは巡礼の足どりのように聴こえる。今回「be-hold」はオクターヴに調性されている。以下、数曲にわたって悲哀と怒号の曲が続く。

23 アルト「彼は人々から軽蔑され差別された」
何度も述べたように「メサイア」のなかには写実的な曲が多いが、この曲ほど内側からにじみでるような悲しさを実写した曲はない。キリストの苦しみ悲しみを女性低声部のアルトに歌わせ、言葉にならない言葉までも吐露させる。この感情の激しさは、数多い他のアリアをしのいでいる。アルト歌手のために作曲された古今東西の独唱曲の最高傑作とするむきもある。曲はオーケストラの伴奏にはじまる。まず感情がぐぐっとふくらむようなハーモニーがある。続いてヴァイオリンの高音域にトリルをともなう下降音形が2度あらわれる。ここまでわずか2小節あまりだが、この部分を聴くたびに筆者は、最初のハーモニーがキリストの目に浮かぶ熱いもの、次のトリルの下降音形が頬をつたわる涙をあらわすと考える。キリストの苦渋に満ちた表情を思い浮かべずにはいられない。ハーモニーと下降音形はくり返される。するとはたせるかな、アルト・ソロがキリストの苦しみを悼むかのように「彼は軽蔑されたHe was despised」を歌いだす。そして三たび四たびとあらわれるトリル下降。アルトとオーケストラ伴奏が作りだす充実した音楽がすばらしい。ひとしきり悲しみの歌が歌われると、「彼は鞭打ち人に彼の背中をまかせたHe gave his back to the smiters」の激しい場面がやってきて、悲しみの現場が具体的に描かれる。オーケストラの付点のきいた鋭い伴奏が耳に残る。罪のない神のひとり子を責める鞭打ちの音である。(鞭打ち場面の最後にダ・カーポ指定があるので、これにしたがって冒頭の悲しみのハーモニーに戻る演奏もある)

24 コーラス「まことに彼は私たちの大病のために世に生まれてこられ」
25     「そして彼の傷とともに私たちはいやされたのだ」
26     「羊のような私たち全人類は道に迷ってしまっている」
前曲の充実ぶりもすばらしかったが、この3曲のコーラスもこれ自体で三幅対の物語のように内容が凝縮されている。第24曲の「surely」という単語の衝撃はものすごい。「正真正銘」といったような意味になると思うが、「S」という鋭い発音ではじまることをいかし、これ以上ないインパクトをもたせている。オーケストラは前曲でも聴かせた付点リズムを執拗につづけるが、8分音符の付点がアレグロ(急速に)で奏されているのではなくて、16分音符の符点がラルゴ(幅広く)で奏されている。このアンバランスがまたいっそう悲劇性をましている。第25曲は2つの動機からなるコーラスである。最初のハ-イ♭-ニ♭-ホという動機はキリストの十字架を象徴するもので、ヘンデルの時代の宗教曲にこのんで使われた。有名なところでは、モーツァルトの「レクィエム」の‘キリエ・エレイソン’がこの動機によっている。この動機にまとわりつくような下降音形を特徴とするのが第2の動機である。この曲ははっきり解決しない減和音で切られ、次の曲にわたされる。第26曲、低弦がつねに8分音符で動きまわっているので、まったく落ちつかない。これを下敷きにしてコーラスも4つのパートがいれかわりたちかわり、歌っては休符で休むので、「迷える子羊」はとどまるところを見失っているようだ。

27 テノール「彼を見る者すべては彼をあざ笑う」
第3曲で高音域の美しいアリアを聴かせて以来、ひさしぶりのテノール独唱である。以降、第2部のアリアとレシタティーフの多くをテノールが受けもつ。第23曲および24曲で演奏された16分音符付点の「鞭打ち音形」がこの曲でも余韻を残している。この曲では、キリストに反感をもつ民衆の情景がナレーション風に客観視されていて、次の曲で具体的な民衆の声が歌われる。

28 コーラス「彼は神にすべてをまかせたのだから、どうせ自身を救えるのだろう」
第41曲のコーラスとならんで、神にさからう民衆の声をコーラスが代弁する。曲頭、バスによって歌われるフーガ主題は息をもつかせない迫力をもっており、すばらしい。この主題が低声部からソプラノへと移り、最後には圧倒的な民衆のどなり声となっていく。

29 テノール「あなたの嘲笑は彼の心を砕いてしまった」
30     「見なさい、よく見てみなさい、彼の悲しみと同じ悲しみが他にあるだろうか」
31     「彼は生なる地から縁を切られた」
32     「しかしあなたは彼の魂を黄泉の国に置きざりにしなかった」
第29曲は数多いレシタティーフのなかでも特に崇高な表情をもつもので、人々の嘲笑にただひとり耐えなければならなかったキリストの苦しみが、ある意味浄化されてしまった雰囲気で描かれる。この雰囲気のまま第30曲をむかえるが、この曲には短いながらもいろいろな要素が盛りこまれている。冒頭、テノールが無伴奏でいきなり「behold」を歌い始めるのである。一部の合唱曲に例外はあるが、伴奏がでる前に人声だけが響くのは(特に独唱曲では)この曲のみである。単独で人声がでることにより、他に比べるものがない、この世で「ただひとつ」のキリストの苦しみが暗示される。今回の「be-hold」は主音-属音となっている。さらに注目すべきことに、「behold」の後に同義の「see」が語られる。キリストの唯一無二の苦しみに目をそらさず注目すべきなのである。続く2曲はソプラノ・ソロで歌われる場合もあるが、まとまりのある内容なので4曲を同じテノールに歌ってもらったほうが雰囲気が崩れない。短いレシタティーフの第31曲でこの世から絶縁された彼の姿が描かれ、どうなることかと思えば、第32曲で神に見すてられない様子が描かれる。29,30,31と3つの悲しみのレシタティーフを聴いた後だけに、イ長調の分散和音を動機とするこの曲はとても明るく、すがすがしい気分にさえなることができる。

33 コーラス「ああ、汝ら門よ、頭をあげよ」
「栄光の王とはだれか」「強く全能なる主、戦闘において全能なる主である」と歌詞がしめすとおり、いよいよ全能なる神の姿が曲の中心に見えはじめる。第2部に入ってから暗く内向的な曲ばかりがつづいたため、この曲の力強さ、そして断定的な言葉の言いまわしは聴いていて心地よい。それにしてもヘンデルはこの曲に使用した動機が気に入っていたようである。「ドシラソ」という下降音形を8分の付点リズムで色づけした動機、もっともわかりやすい例ではクリスマスに歌われる、もろびとこぞりての「もろびと」の部分の音形である。ヘンデルは、なにかとても嬉しいできごとを率直に表現したいときにこの動機を使っていたようで、「メサイア」のなかではこの曲のほかに第17番にも使用しているし、第53曲「Worthy is the Lamb」もこの変形と見られる。他曲でも、たとえばオペラ「ジュリウス・シーザー」第3幕第3場のクライマックス、シーザーとクレオパトラの愛の二重唱の動機もこのたぐいと見ていいと思う。

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