オットリーノ・レスピーギ:交響詩「ローマの祭り」

Ottorino Respighi Gospel in Classical

読者のみなさんはイタリアを旅行したことがおありだろうか? あの、長靴のようなユニークな地形をもつ国、照り輝く太陽と抜けるような青空につつまれた国、そして誰とでもすぐに友だちになる陽気な国民が住む国、初めてイタリアの地を踏んだ日本人の多くがカルチャーショックを受けるのである。そして一度でも赴いたことのある方はおわかりだろうが、あれほど歴史と芸術に彩られた国もない。例えば日本からイタリアに向かうとしよう。日本の新東京国際空港,大阪国際空港というなんの変哲もない名の空港から飛び立つと、イタリアに到着するときには「ミケランジェロ空港」「レオナルド・ダ・ヴィンチ空港」の出迎えを受ける。国の玄関口に画家の名前を冠しているのである。いかにイタリアが自国の芸術家に誇りをもっているか、またその芸術家の名の通りがいいかがこれを見ただけでわかる。

イタリアが生んだ芸術家は、まずそのレベルの高さを見ただけでも畏敬の思いをもたずにはいられない。古代ローマ帝国の時代から隠然たる勢力をもち、明るい自然には恵まれ、聖書にも登場するほどの歴史を背景としているわけだから偉大な芸術家が生れるのも当然とは思われるが、絵画の世界では古くはリッピを筆頭として、マサッチオ,ラファエロ,ボッティチェリ,モディリアーニなどがいるし、マルティーニやマンズーなどの彫刻家、ジオ=ポンティ,ルイジ=ネルヴィといった建築家までも生んでいる。しかもこれらの人物は、その時代を代表するそれぞれの分野の指折りの大芸術家として名をはせたのだからイタリアの芸術にはいつも感心させられるのである。

またイタリアに足を運んだ音楽ファンがはっとさせられるのが、音楽用語がそのまま日常で使われていることである。ファーストフード店では例えば、ジュースの小さいサイズを“S”ではなく“ピッコロ”と表示しているし、その他にも“プレスト(速く)”,“タント(いっぱい)”,“コントラ(反対)”,“トランクィル(休憩)”などの言葉に出くわしたときには、とてもうれしくなる。イタリアと音楽とのつながりはいかに深いことだろうか。

もういうまでもないことだが、そのイタリアが生んだ作曲家は古くから数かぎりない。そのなかで今回特集するのがレスピーギである。音楽史の年表で見てみると、「ボレロ」で有名な1875年生まれのラヴェルの4歳年下、現代音楽の代名詞のようにもいわれる1882年生まれのストラヴィンスキーの3歳年上というところに位置しているから、ずいぶん新しい音楽家である。

彼の残した曲はここ何年かで急に人気がでてきた。その作風がいずれも明るい音色に彩られたものばかりなので演奏する側も聴く側もあきないからだろう、至難の技術を必要とするにもかかわらず、特に学生オーケストラや吹奏楽団が彼の曲をひんぱんに演奏している。傑作ばかりなのだが、その音色がにぎやかすぎるからか、あるいは逆にメロディやハーモニーが古風だからか、はたまた最近の人ということでクラシック作曲家としてはまだまだキャリアがないためなのか、現在のところ名前は意外に知られていないが、作品の質の高さや生前の業績から考えるともっと知名度があがってしかるべき作曲家である。

レスピーギの作品を調べてみるとなかなかの魅力をもっていることがわかる。彼の音楽にはいくつか特徴がある。

まずなんといっても、その鮮やかな色彩感を第一の特徴としてあげなければならない。もともとイタリア人は陽気な性格をもっていて、音楽家にかぎらず開けっぴろげなスタイルを好む国民であることはだれもが認めるところだが、レスピーギはその陽気さを音楽で見事に表現している。陽気な音楽を作るということは、たくさんの楽器を使って大きな音を出せばよいかといえば決してそうではない。それは単なるノイズでしかないのであって、レスピーギの場合は個々の楽器がもつ特色を最大限に生かし、それをオーケストラのなかでとてもうまく調和させる。そのうえ、既存のオーケストラ編成では表現しきれない音楽を求めた彼は、実験音楽とでもいうのだろうか、はたまた音楽ではない“音”を取り入れたとでもいうのだろうか、それまでにはない珍しい実験を試みている。例えば、交響詩「ローマの松」の第3曲目では、月の光にくっきりと照らしだされた松の木にとまるうぐいすを描くために本物のうぐいすの声の録音を聴かせるように指定しているし、続く第4曲目では、古代ローマの軍隊行進の様子を描くためにオーケストラが乗っているステージ上とは別の位置(舞台裏あるいは客席の最後尾)でトランペット(正しくはブッチーナ:旧式のラッパ)のファンファーレを鳴らす。その他の曲でも、チューブ式の鐘,ドラ,チェンバロ,ラットル,それだけにとどまらず、オーケストラのなかではめったに使われないピアノ,マンドリン,長太鼓を起用したりもする。このようにレスピーギはさまざまな音色とサラウンドの効果を試みる音楽史上の改革者であった。

このようにまばゆいばかりの斬新な発想をしたレスピーギはその反面、ルネッサンスの音楽や15~16世紀の教会音楽旋律法を発掘する音楽研究家でもあった。ローマの大学や図書館で古代の音楽を尋ね、それを研究し咀嚼(そしゃく)し自分の作品に反映させたのである。これが彼の第二の特徴である。一例をあげると、第1番から第3番まで番号のついている組曲「リュートのための古い舞曲とアリア」がある。みなさんもリュートという楽器の名前ぐらいはご存知と思う。しかし、どういう音のする楽器か考えてみるとなかなか思いつかないほど最近ではお目にかかることのない楽器になってしまった。洋ナシをたてに割ったような形をしており、古風で渋いがどこかなつかしい音色をもっている。イベリア半島を起源とし、11世紀ごろヨーロッパに紹介されたあとは、宮廷を中心に大流行した楽器であるが、その後華やかな楽器がもてはやされるようになると次第にその生産もすたれていってしまった楽器である。レスピーギは、このリュートのために遠い昔数多く作曲されたであろうメロディを想い起こしながらこの組曲を作った。ここで使われる楽器はごく普通の弦楽器,管楽器,チェンバロだが、奏されるメロディは遠いいにしえの雰囲気に満ちており、聴く者に15~16世紀の世界を想い起こさせる。さらに注目すべきことは、3つの組曲がそれぞれ均整のとれた4つの楽章からなっていて、形式的にも古典的だということである。これなどは、例えばバッハの場合と比べてみるとおもしろい。バッハも似たような形式の「管弦楽組曲」を4曲(5曲という説も)作曲しており、有名な「G線上のアリア」を含む第3番は5楽章の形式をとっていてむしろ自由で新しい感じさえ受けるが、レスピーギの組曲は形式美を重んじ小交響曲を思わせる伝統的な4楽章をとっている。つまりレスピーギはメロディのうえでも形式のうえでもバッハ以前の時代の音楽――気品と香気につつまれていて、音そのものが崇高で宗教的空気をかもしだす音楽――にまでもどり、古楽の復古を世に問うた。これは、歴史と芸術の宝庫である故郷イタリアを愛してやまないレスピーギの愛国心の表れ、また曽祖父の代からの熱心なキリスト教徒だったレスピーギの信仰告白だとも思うが、このようにレスピーギはイタリア本国でも忘れられかけていた古い音楽を掘り起こし、それをイタリア人はもとより全世界に紹介した。まさに温故知新の精神である。

また三つ目の特徴として、その豊かな叙情性をあげることができる。叙情性、横文字でリリシズムなどといわれる。叙情曲といえば、その名のとおり静かで表情豊かな曲、センチメンタルとは少しちがうかもしれないが触ったら崩れてしまいそうな細い線の曲である。叙情性のある音楽を作った作曲家はクラシック界には多い。ピアノのフォルテピアノを生かし細やかな叙情性を作りあげたショパン、北欧のクールで透明なハーモニーのなかに独特の和声で叙情性を作りあげたグリーグ、うら寂しいメロディを使い、以前このコーナーでとりあげた「アンダンテ・カンタービレ」のようなロシア風の叙情性を作りあげたチャイコフスキーなどが代表的な音楽家であるが、レスピーギの叙情性は先輩ドビュッシーから影響を受けた印象派的なものである。みずからをつつんでいる光と時間を感覚的にとらえ、できるだけ感情移入をしないままにその雰囲気を音に置き換える手法である。それは、弦楽器のかぼそい持続音でつくられた下地のうえに管などのソロ楽器のメロディで描かれることが多い。そして交響詩「ローマの噴水」冒頭の夜明けの場面に聴かれるように、カオスのような世界がひらけるのである。一度でも耳を傾けていただければレスピーギの魅力的な叙情性がおわかりになると思う。

そのレスピーギの代表作といえば、すでに上述しているが、ローマの風物をダイナミックに描いた3つの交響詩「ローマの噴水」「ローマの松」「ローマの祭り」であろう。この3曲はいずれも甲乙つけがたい名曲であり、一定の形式のもとそれぞれちがった題材をとりあげしかも視覚的な音色を使っているため、まるで三幅対の名画を見るような素晴らしさがある。それぞれの曲がまたきれいに4つの部分にわかれ、また4つそれぞれにレスピーギ自身が記した説明がついている。3曲中もっとも情感あふれる「ローマの噴水」は、夜明け,朝,昼,黄昏(たそがれ)どきの4つそれぞれの風景に一番マッチするローマの4箇所の噴水を描き、また3曲中もっとも内容が充実している「ローマの松」は、4箇所の松林がかつて見守っていたであろうその周辺で起きた事象を描く。そして今回とりあげる「ローマの祭り」は、ローマの大祭を古代ローマ,中世,ルネッサンス,そして現代と4つの視点から、鮮烈ともいえるオーケストレーションで描ききったレスピーギの傑作である。その内容について下の「鑑賞Time」で書ききれないのでここに記しておくと・・・

◇第1部:史上まれに見る暴君、ネロ皇帝が円形劇場で行なった祭「チルチェンセス」。劇場場内でキリスト教徒とライオンを戦わせる残虐きわまりないショーもひとびとの記憶には残っている。

◇第2部:キリスト者たちが50年ごとに行なった50年祭。その、厳格な巡礼の歩み、目的地モンテ・マリオの山頂からローマの町並みを望んだときの喜び、山頂の教会の鐘の音を描く。

◇第3部:ローマ郊外のぶどう酒を生産する村という村では10月に収穫祭を開く。角笛を吹き鳴らし、讃美歌を歌いあい、夜には恋人たちが語りあう。10月祭の一日である。

◇第4部:キリストの降誕を祝う主顕節の前夜、いわば主顕節イヴ、ローマの人たちは喧騒ともいえる主顕祭のひとときを楽しむ。さまざまな人たちが入り乱れ、町をあげて陽気に騒ぎつくすのである。

さてここで、「交響詩」について簡単に触れておこう。この音楽形式はハンガリーの大作曲家リストが創作したもので、交響曲のような主題の提示やその展開といった図式にとらわれない音楽のことである。古典派時代には絶対音楽、つまりあるメロディーを音楽的にのみ展開し結論をだす音楽がベートーヴェンなどの手によって完成されたが、交響詩は音楽以外にテーマを求め、具体的な文学,風景,思想,物語などを音楽で表現するものである。「ローマの祭」は史実と風景を描いた曲ということになる。

♪ 鑑賞Time

二重かぎかっこ内は、レスピーギ自身が記した文章である。

第1部「チルチェンセス」

Colosseum

Colosseum

『円形大劇場のうえに威嚇するように空がかかっている。しかし、今日は民衆の休日「アヴェ・ネローネ」だ。鉄の門が開かれ、聖歌の歌唱と野獣の咆哮が大気にただよう。群集は激昂している。乱れずに、殉教者たちの歌がひろがり、制し、そして騒ぎの中に消えてゆく。』

全オーケストラがいきなり大音響をとどろかせる。ドラが打ち鳴らされると同時にラッパの鋭いファンファーレが響きわたる。サルタレロというイタリアの舞曲をもとにした、三連符を含む特徴あるファンファーレである。劇場内の悲惨なショーと、それを見物して激昂する観客とを描いている。中間部では弦楽器が演奏する讃美歌が聴かれる。このような悲しい最期をとげながらもなお神を讃美してやまない信徒たちの祈りの歌である。この祈りの歌と観客の激昂が交互に表われる素晴らしいオーケストレーションの部分をへて、また最初の大音響とファンファーレが再現される。最後は、いかなる迫害にも断じて屈することのないキリスト教徒の強い信仰を確かめるかのように、全オーケストラが和音を何度も何度も叩きつけて終わる。

第2部「50年祭」

『巡礼者たちが祈りながら街道沿いにゆっくりやってくる。ついに、モンテ・マリオの頂上から、渇望する眼と切望する魂にとって永遠の都「ローマ、ローマ」が現れる。歓喜の讃歌が突然起り、教会は、それに応えて鐘をなりひびかせる。』

前の部分とはうって変わって静かな静かな巡礼の歩みに始まる。弦楽器が奏する落ち着いた威厳のある規則正しい行進曲。古い教会旋律が使われ、山頂を目指して祈りながら歩き続ける信徒たちを彷彿させる。しかしその静かな歩みも次第に力が増してくる。目的地が近づいてきたのである。弦楽器を中心に曲がもりあがり、ついには山頂に達したときの喜びの叫び声となる。この部分は、ヴァイオリンが演奏する「ソファミソファミド」という伴奏のうえに管楽器群が絶叫するのですぐにそれとわかる。いったん曲が静かになったところで、教会の鐘が鳴り響く。チューブ式の鐘とピアノの和音という斬新な響きである。そのうちどこからともなくホルンが響いてくる。10月祭の部分がやってくるのである。

第3部「10月祭」

『ローマの諸城(カステッリ)での10月祭は、葡萄でおおわれ、狩のひびき、鐘の音、愛の歌にあふれている。そのうちに、柔らかい夕暮れの中にロマンティックなセレナードが起ってくる。』 ティンパニーの一撃に始まる。森の中から狩人たちの角笛が響きわたる。狩をし、その一番最初にとらえた獲物を神にささげている。いっぽう村では鈴のリズムに乗せて村人たちが陽気に踊りまくる。収穫をし、その初めての穀物を神にささげる。そして森にいた狩人と村にいる村人が一緒になり晩の祈りをささげる。日が暮れると今度は若い男女が恋のひとときを過ごす。愛をささやき、夢を語りあう光景はロマンティックなマンドリンのソロで描かれる。星の瞬く夜はいつまでも続くのであった。

第4部「主顕祭」

『ナヴォナ広場での主顕節の前夜。特徴あるトランペットのリズムが狂乱の喧騒を支配している。増加してくる騒音の上に、次から次へと田園風の動機、サルタレロのカデンツァ、小屋の手廻しオルガンの節、物売りの叫び声、酩酊した人たちの耳障りな歌声や「われわれはローマ人だ。通り行こう」と親しみのある感情で表現している活気のある歌などが流れている。』

しじまをクラリネットのソロが破る。それに続いて管楽器が次第にその数を増やし、小太鼓の派手な音も加わる。金管楽器は巻き舌で演奏する。底抜けに明るいナヴォナ広場の主顕祭である。この序奏のあとは場面がめまぐるしく変化する。まずは道端の大道芸人がその腕を披露している。次にクラリネットがおもしろいメロディをだし露天商人の口上を描く。続いてオルゴールのような響きになり手廻しオルガンの音を倣す。賑やかな酔っ払いの様子をトロンボーンがスラーをたっぷりきかせてあらわす。

このようにローマの人々は深い信仰を心底にもちながら大好きなお祭りを心から楽しんで過ごすのである。今まで以上の壮麗な喜びの大音響のうちにこの「ローマの祭り」は閉じられるのである。

おすすめCD
THE BEST

ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団[RCA]
オーマンディの指揮するフィラデルフィア管の音色は「華麗なるフィラデルフィア・サウンド」として一世を風靡 した。演奏される曲目すべてが魔法にかかったように、鮮やかで艶やかな曲としてよみがえるのである。そういう意味からも「ローマ三部作」は彼らの壮麗な演奏で楽しみたい。とりあえず「祭り」を見ると、まず曲の幕明け「チルチェンセス」の鳴らせ方からして尋常でない感じがある。すぐ目の前で弦楽器がなっているかと思えば、金管楽器は鋭い音にもかかわらずはるか奥の方から聴こえる。レスピーギが聴かせたかったであろうサラウンド効果が抜群である。「10月祭」のホルンの音色などもふくよかでいうことなし。リズムもへたに早くしたり遅くしたりすることなく、オーマンディの風格が見えるところである。「祭り」の名演奏としてまず推薦したい録音である。

この演奏に勝てるとしたら、世紀の大指揮者、トスカニーニの名演ぐらいだろう。何を隠そう「祭り」の世界初演は1929年、トスカニーニが行なった。それだけに彼はもうこの曲を手中におさめてしまった感がある。曲の聴かせどころを十分に把握し、強い部分、静かな部分、速い部分、遅い部分を、なんというか憎らしいほどツボを押さえて演奏している。特に「主顕祭」の迫力は言語でいいあらわせない。1949年録音のモノーラルであることが残念である。これでステレオだったら文句なしのベストである。

この他、デュトワもこの曲を得意としている。こちらは叙情性に焦点をおいたフランス風の演奏である。

それともうひとつ。カラヤンが「噴水」と「松」を録音している。この2曲を聴くとカラヤンの名人芸がよくわかる。交響詩のジャンルでも多数の名演奏を残してくれたカラヤン。淡い絹糸のようなデリケートさと重々しいドイツ風の荘厳さを巧みに使い分けるだけに、レスピーギの曲もそれぞれの部分が浮き立って聴こえる。ところが、カラヤンはなぜか「祭り」だけは録音しなかった。うえの2曲の名演を聴くかぎり「祭り」も素晴らしいできばえだったであろうに、理由はよくわからないが惜しいことである。

下もおすすめ

トスカニーニ指揮NBC響 [RCA]

デュトワ指揮モントリオール響 [ロンドン]

ヤンソンス指揮オスロ・フィル [EMI]

(追記)今回のイタリア特集を書き終える少し前の10月31日、ローマからそう遠くないカンポバッソ付近を震源とする大きな地震が起こったというニュースを耳にした。この地震によってイタリアの文化が影響を受けることのないように願うと同時に、犠牲者とそのご遺族のうえに主イエス・キリストの御慰みがあるよう心からお祈り申し上げる次第である。 ――牧洋一

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