ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト:モテット「踊れ、喜べ、幸いな魂よ」(K.165)

Wolfgang Amadeus Mozart Gospel in Classical

アレグロ
全オーケストラの生き生きとした第1主題に始まる。協奏曲風モテットのオープニングにふさわしい明るさにみちている。つづいてわずか11小節後に木管楽器に現われる小鳥のさえずりのようなフレーズが第2主題である。このように明確なふたつの主題があるソナタ形式をもつ新しい感覚のモテットをモーツァルトは世に送りだしたわけである。この後いよいよソプラノ・ソロが曲頭にでた第1主題をもとにしたメロディを歌って登場する。「踊れ、喜べ、幸いな魂よ。それにともなって天も喜びを歌うから」と歌う。ソプラノの高くて跳躍のある歌いかたも小鳥のさえずりのようである。そして途中、ソプラノの高声部のさえずりと木管の第2主題のさえずりがかけあいを見せる。オーケストラの合奏が朝日にかがやき春風にそよぐ新緑の木の葉、ソプラノと木管がその枝の間にあそぶ小鳥たち、とは筆者のかってな想像であるが、どうだろう? 協奏曲の定石であるカデンツァ(独奏楽器が無伴奏で技巧をみせる場面)があってこの楽章は終わる。
このアレグロを聴いただけでモーツァルトの愉悦感にひたることができる。べつに予備知識がどうのといった固くるしいことを書くつもりはないが、偶然にこの曲を聴くのとモテットの歴史を知ったうえで聴くのとではだいぶ差がある。その成りたちを知っていると、モテットにこのような明るさを取りこんだりソナタ形式を持ちこんだりしたモーツァルトがいかに新しいことをやってのけた作曲家か、いかに聴衆に音楽の喜びを提供しているかが理解できる。

レシタティーフ
オルガンを伴奏楽器とするソプラノのレシタティーフがここに挿入される。このK.165のなかにあえて中世の伝統的なモテットの雰囲気をさがすとすればこの部分であろう。しかしもちろんモーツァルトは中世のモテットにならってここにこの雰囲気をもってきたのではない。この部分は、華やかなアレグロとやわらかいアンダンテを橋わたしする役をしている。ふつうモテットは全体的に強弱緩急といった感情の変化をもたない。また協奏曲にしてもレシタティーフという概念はもたない。アレグロとアンダンテの間にスロープを作るためにレシタティーフをもってくる、ここにまた「モーツァルトのモテット」のユニークさがある。「雲も嵐も夜も去り、太陽がのぼって朝がくる。雄々しく目をさましなさい」と歌われる。

アンダンテ
モーツァルトの協奏曲の緩徐楽章に共通することは、どの曲にもカンタービレ(歌うように)という指定があてはまることである。しかしこの曲のアンダンテは指定するまでもなく歌をともなう緩徐楽章である。美しい旋律に美しい歌声、「玉座にいますかた、私たちに平和と望みを与えたまえ」という歌詞が聴き手の心をくすぐる。ここもまた2つの主題をもとにしたソナタ形式にしたがっている。ソプラノのカデンツァののちわずかに不安定な音楽になるが、切れ目を置かずにアレグロへと続く。

アレグロ「アレルヤ」
神によって平和と望みを与えられたうえは、その神を讃美する以外にない。この楽章では、ラテン語で書かれた歌詞の最後の言葉「アレルヤ」を歌うことに始終する。その曲想は喜び一色にそまっていると同時にモーツァルトの面目躍如である。この曲は初演の時から人気が高く、現在でもモテット全曲でなくともこの楽章だけコンサートで演奏されることが多い。曲はオーケストラの前奏に始まるが、これこそ喜びに満ちた愛らしいメロディで、いちど聴いたら忘れられないものである。このメロディをソプラノが繰りかえす。ただもったいないことに、これだけの名旋律なのにこのメロディはその後、2回ほどしか現われない。しかも省略された形で・・・ さきほどから協奏曲を例としてあげてばかりいるが、モーツァルトの協奏曲のフィナーレはロンド形式(最初の主題をAとするとABACABAなどの形)をとることが多く、この曲も最初の主題がロンド形式の主題としてぴったりなのである。しかしそうはしていない。あまり繰りかえすと冗長になると思ったのか。はたまたわざと繰りかえさず余韻を残したかったのか。
いずれにせよこのフィナーレは、旋律だの形式だの分析する余地のないまま「喜び」だけを残してさわやかに終わってしまう。ここに彼の手腕があるのかもしれない。理屈をぬきにして聴き手の五感に「神にある本当の喜び」を訴えかけるモーツァルト。「ミューズの子」と呼ばれるゆえんである。

おすすめCD ―――――
THE BEST

アンドレ・プレヴィン指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団/キャスリーン・バトル(ソプラノ)[フィリップス]

モーツァルトのモテット――プレヴィン――バトルという組みあわせは一見違和感を感じさせる。というのも、プレヴィンにはどうしてもジャズピアノのイメージがつきまとうし、バトルはバトルでオペラなどの豪華なステージが似合うからである。この2人にモテットが演奏できるのかと・・・ しかしこの録音では、そういった2人への妙な先入観を払拭してしまうようなすばらしい演奏が展開されている。プレヴィンの棒は第1楽章最初の一音からしてとてもすがすがしい気分を細部にまでいきわたらせ、ビーチャム以来守られつづけてきたロイヤル・フィル独特の透明な音をこの曲に実に巧みにマッチさせている。その透明な響きのうえにバトルがこれまた本物の小鳥のようなかわいらしさをふりまくのである。そのすがすがしさ、かわいらしさは「アレルヤ」で頂点に達する。これを聴いていると、まず2人の個性ありきなのではなく、2人がこの曲をよく理解し、その真髄を聴き手に提供している偉大な音楽家であることがわかる。

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