放蕩むすこ “Prodigal Son” The Rolling Stones

Beggars Banquet Gospel in Rock

今年2012年ストーンズは、結成50年めに入り、記念企画が各地で行われる。オリジナルメンバーのミック・ジャガー、キース・リチャーズ、チャーリー・ワッツは還暦はおろか全員70歳を超えてもなお現役である。途中参加といっても四半世紀以上一緒に活動していて一番若いロン・ウッドでも今年65歳になる。それでもストーンズの人気、パフォーマンスは衰えていない。

今回はこのストーンズの最高傑作アルバムベガーズ・バンケット(Beggars Banquet)からミック・ジャガーが歌う古いブルーズ「放蕩むすこ」を紹介する。

放蕩むすこ」はクリスチャンならだれでも一度は聞いたことのあるイエスのたとえ話である。ノンクリの人の「放蕩」のイメージは「放蕩の限りを尽くす」「酒色にふける放蕩息子」だと思うが聖書の中の「放蕩むすこ」は単に「酒色にふける放蕩息子」とは違う。聖書の該当箇所を引用する前に欧米での「放蕩→Prodigal」の意味について述べる。手許にあるCOBUILD ENGLISH DICTIONARYでprodigalを引くと次のように書いてある。

You can describe someone as prodigal if they leave their family or friends but later return as a better person.

また、OXFORD DICTIONARYではa wanderer who has returned homeである。すなわち、「単純に放蕩を尽くす人(息子)ではなく家族をおいて家を出てもよい人間となって戻ってくる人(息子)」なのだ。なぜ、戻ってくる人(息子)を指すのかと言うのか。それはこれが聖書から発生した言葉だからである。

それでは、新共同訳聖書の該当箇所を引用しよう。少し長いが読んで頂きたい。

ルカによる福音書15章11節~32節
また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。
弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。
何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。
何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。
それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。
彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。
ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』
しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。
それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。
この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。
そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』
兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。
しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。
ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』
すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。
だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

ここに出てくる「下の息子」は我々人間であり、「父親」は父なる神を表している。放蕩の限りを尽くしてどん底に落ちたものでも悔い改めて戻ってくればいつでも神は歓迎して私たちを迎え入れてくれるという例えだ。注意したいのは「兄」との比較で「できの悪い息子ほど可愛いい」といことではない。兄が父親に「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。」と父親にクレームを言うが父親は「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」と答えている。決してないがしろにしているわけではないのだ。また、このルカの福音書の15章の直前にはこれとほぼ同じテーマを持った「見失った羊」、「無くした銀貨」の例えが書いてある。興味がある方はこちらも読まれるとよいだろう。

さて、ストーンズの曲に戻るとこの曲はストーンズのオリジナルではない。古いブルースでRobert WilkinsのThat’s No Way to Get Alongが元歌となっている。歌詞は聖書の例えをほぼ忠実に歌っている。ストーンズがなぜこの曲を取り上げたのかは不明であるが、不良の代表のように思われていた自分達ストーンズを「放蕩息子」に見立てているのは間違いないだろう。皮肉ではなく実は「セックス、ドラックと放蕩を尽くしているように思われている自分達でさえも神は見捨てないのだ」ということを表現したかったようにも思える。なぜかというとこのベガーズ・バンケット全体が実はGospelの雰囲気があるのだ。アルバムの中で一番有名な「悪魔を憐れむ歌」は自分を大魔王Luciferと皮肉っているがキリストも登場する。アルバムの最後は「地の塩」とこれも聖書で一番有名な言葉をタイトルにした曲で締めくくっている。ストーンズ流に「地の塩」を下層階級の人にしてしまっているが人間を賛美した内容だ。また当初発売されたジャケットにはRSVP (Revised Standard Version=改定標準訳聖書)ともとれる文字が書いてあった。

サウンド的には全曲アコスティックギターが使われていて今流行りのアンプラグドともいえる作りになっている。演奏、曲どれをとっても一番油がのっているときに作られたアルバムであり、冒頭述べたようにストーンズの最高傑作と今でもいわれることの多いアルバムである。ベストアルバムに飽き足らない人は次にこれを聞かれるとよいだろう。

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