ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル:「メサイア」

Gospel in Classical

Georg Friedrich Haendel

おおよそ世の中に現存するオラトリオのなかで最高の芸術性と人気を誇る「メサイア」。作曲されてから250年以上もの歳月が過ぎたにもかかわらず、いまだにその魅力は色あせていない。5年前にダブリンにおいて初演さながらの「メサイア」コンサートが催されたが、このときの模様が全世界規模で放映されたのだろう、このコンサートをきっかけに世界の音楽家のあいだで近年またさらに「メサイア」再認識の研究が進んでいるように思われる。このオラトリオは21世紀の世にあっても私たちの心をとらえてはなさないようだ。

これほど人気を誇っている「メサイア」だが、筆者は以前よりこの曲についてその知名度が不思議でならない。古今のクラシックのなかには、作者自身が曲を完全に書き終えて筆を置いた名曲がある一方で、モーツァルトの「レクィエム」やシューベルトの「未完成」交響曲、あるいはマーラーの第10交響曲のように、作曲なかばで作者が筆を置いてしまった大傑作もあり、筆者が思うに「メサイア」は後者に属するからである。

賛同してくださる方もいらっしゃるだろうが、「メサイア」は完成したオラトリオとはいいがたい。もちろん、今日演奏されている1曲目「序曲」から最終曲「ほふられし小羊-アーメン」まで全曲がヘンデルの手によるものであることは事実なのだが、楽器編成やソリストの割りあての改善を図るなど、ダブリンでの初演(このときに用いられた楽譜と作曲当初の楽譜とがそもそもくい違っている!)以来、ヘンデル自身この曲をくり返し書き直しているからである。つまりヘンデル自身が決定版を明確にしていないからである。ちなみに、「レクィエム」や「未完成」を例にあげたが、作曲を中断したのではなく自身の納得がいかずに最終稿を決めずにおわり、結局今日まで決定的な楽譜がないという意味では、むしろブルックナーの交響曲群に似ている。

このように、決定的な楽譜が明示されていない、複数のバージョンが残された曲ほど演奏家にとって、特に指揮者にとって手がけにくい作品はない。ただでさえ自らの音色を選択していかなければならないのに、まずその基となるスコアを決定しなければならないとなると、使わなくてもいい神経を使うことになってしまう。また同じことは聴き手にとってもいえることで、作曲者の音楽的な訴えがとぎれてしまった曲を聴かされたのでは、それこそ不完全燃焼に終わるだろう。

しかしこの曲の場合はまったくちがう。バージョンを選ぶ努力を惜しまず好んで演奏され、聴衆もそれに惜しみのない拍手を送っているのが実際である。完成した曲ではない、にもかかわらず歴史的な名曲として演奏され愛聴されている。筆者が「メサイア」を不思議な曲と考えるのは、聴くたびにこの疑問がわいてくるからである。

この不思議をとき明かしていけば、自然と「メサイア」の魅力がどこにあるのかを再認識できる気がする。

いうまでもなく音楽には長い歴史によって作られた一定の形式というものがあり、この形にのっとって作曲すれば理路整然とした音による論文ができあがるはずである。しかし形式を守ったからといって必ずしもいい曲ができあがるとはかぎらない。反対に形式を無視してもすばらしい曲に仕上がることはある。ここが作曲の難しいところであり、名曲が名曲として後世に残るゆえんでもある。決定版のない曲、作曲途中の曲などは形式がまとまりきらなかった曲といって差し支えないだろう。そのまとまりのない曲が名曲として残っているからには、形式が不完全ながらその不完全を補う、またはそれ以上の魅力があるということである。その魅力とは?

さきほど筆者は不完全な名曲として「メサイア」のほかに「レクィエム」,「未完成」,マーラー「アダージオ」,そしてブルックナーの交響曲をあげたが、これらの不完全な大傑作には共通していることがある。それはメロディが非常に美しいことである。深い情緒をたたえるブルックナー交響曲はいつでも私たちを切なくさせる。ヴァイオリンの最高音域が印象的な「アダージオ」のデリケートなこと。「レクィエム」は曲の大半を弟子の手に頼っているとはいえ、美しい「涙の日」などはモーツァルト以外の何人にも作れないものだし、「未完成」はもう全編にわたって天上の世界である。このように見てみると、形式が不完全だから悪い、完全だから良いというレベルの評価ではなく、形式的なものがとぎれてしまったにせよ何にせよ、まずはやはりメロディのすばらしさ、芸術性ありきなのである。このことはまさしく「メサイア」についてもいえることである。演奏するにあたっては、楽譜をえらぶことに始まって多くの障害を乗り越えなければならないが、いざステージ上でふたを開けてみるとその苦労を一掃してしまうような数十個の宝石がこぼれ落ちる。ちなみにその宝石も、壁にしっかりと打ち込まれた手の届かないバッハの宝石とはちがい、手にとって愛撫し頬ずりすることができる目の前の宝石である。このメロディの宝石に私たちは酔わされてしまうのである。

さてこのように、多くの障害がありながらもその美しさによって愛されつづける「メサイア」ということを書いてきたが、ここでその障害(こういう言葉を使っていいかどうか疑問だが、ほかに適切な単語が見つからなかった)自体の魅力についても考えてみたい。

この曲を演奏するにあたってまず直面する障害が楽器の決定である。オーケストラにするのかピアノ伴奏にするのか、はたまた弦楽四重奏にするのかあるいはまったく別の楽器にするのか。楽器の編成をまず決めなければならない。仮にもっともポピュラーなオーケストラ演奏にするとしても、有名な「捨て子養育院版」,「モーツァルト版」,「プラウト版」をはじめとして、多数ある版のなかからひとつをえらばなければならない。次に楽器の規模,コーラスの規模を決めなければならない。コーラス,ソリスト陣にとっては英語で歌うかドイツ語で歌うかも決めなければならない。また全40数曲のうちからどれを演奏するか曲をえらばなければならない。そのうえに指揮者,演奏者の解釈がはいるのである。一曲のオラトリオで実際の演奏にこぎつくまでにこれだけの障害があり、考えられる結果が無数の枝葉に分かれてしまう曲もめずらしい。

しかし、この障害が障害とみなされないところがまたこの曲の名曲たるゆえんである。演奏方法が無数の枝葉に分かれてしまうということは、別の見かたをすれば時と場所をえらばない音楽だといえる。何千人という聴衆を前にした本格的なコンサートとして仕上げられることはいうにおよばず、演奏者,聴衆あわせて数人というアマチュアの発表会レベルの演奏会としても完成しえる。「メサイア」が広く人々に受け入れられているのは、こんなところに要因があるように思う。

毎年、常盤台教会において行なわれる「メサイア」演奏会はその好例といえる。一般のコンサートとは一線を画すこの演奏会では、「メサイア」が特別な意味で芸術品となりえている。教会附属の聖歌隊が合唱をしているが、こういったアマチュア合唱団が合唱部分を担える曲なのである。そのうえ、教会の伝道目的に「メサイア」が利用されている。演奏会の特色にあわせて臨機応変に適応させられることの一例である。例はまだある。常盤台教会メサイア演奏会の実例だが、オーケストラではなくピアノ伴奏で演奏されたことがある、時間的制約により膨大な数の曲のなかから数曲がえらばれて演奏されたことがある、そして先日8日の演奏会のように、曲の演奏に牧師のメッセージを挿入することもある。こういったバリエーションを加えても何の違和感も感じさせず立派な演奏会として成り立つところに「メサイア」の、そして作者ヘンデルの偉大さがある。

これは非常に独特な意見かもしれないが、実はここにヘンデルの先見の明があるような気がしてならない。つまり――ヘンデルは天性のメロディメーカーであった。その彼が甘美なメロディをふんだんに盛り込んだひとつのオラトリオを作曲した。曲はキリストの生涯をつづるものであった。彼はこの曲を通じて多くの人にキリストを知ってもらいたいと思った。しかし普通に完結させたのでは耳目を集めない。そこで講じた一案が、メロディの魅力はもう十分にあるわけだから、ここでひとつ、曲の構成をいじれるだけいじくりまわして決定打を出さずにおこう、こうしておけば後にいたって実際のステージ演奏にこぎつくまでのあいだに、演奏者たちに苦しい練習を強いてしまうことになるが同時に研究も重ねてくれるだろう、というものだった――「メサイア」を聴くたびに打ち寄せる大きな感動と不思議な感覚をあわせて分析してみると、このような結論をだしてしまう。

かの大指揮者サー・ゲオルク・ショルティもこの曲を録音する際、その演奏方法、選択肢の多さに舌を巻いたようである。ショルティの言葉である。「ヘンデルの≪メサイア≫を演奏しようとして、そのスコアを調べると、さまざまな問題や疑問が起こってくる。これは≪メサイア≫が書かれた時代以来のことである。とりわけ≪メサイア≫は私が指揮をとった最初の大規模なヘンデルの合唱作品だったから、私は大いなる意欲に燃えて、この仕事にとりかかった」。また解説ではこう書かれている。「ショルティはバロックの透明度を保持しながら≪メサイア≫の『崇高さ』と『エンターテインメント』の両要素をみごとに打ち出している。ショルティが非常に愉しんで演奏している、その生きた歓びが聴き手にも伝わってくるのである」(両文章ともロンドンレーベル・ショルティ指揮シカゴ響「メサイア」のジャケットより)。
これらの言葉が示すとおり、「メサイア」の不完全さが逆に大きな魅力となって演奏者および聴衆を引きつけているとすれば、ヘンデルの思惑が見事に功を奏しているといえよう。


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