ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル:「メサイア」

Gospel in Classical

34 テノール「かつて神は天使のなかのどの者にむかっていわれたのか」
35 コーラス「神のすべての天使たちに彼を礼拝させよ」
独唱曲の第34曲は次のコーラスとセットで考えたほうがいいと思われる。神が語られた言葉を具体的に歌詞にしているので、レシタティーフとして荘重に歌われる。その言葉を受けたうえで天使たちの神への礼拝がコーラスで明るく歌われる。神が啓された(という書きかたでいいだろうか)言葉に対して、天使たちが神を礼拝する音楽の対照の妙がすばらしい。なおうえでは、「Let all the angels…」をそのまま訳して「天使たちに礼拝させよ」としたが、本当は「礼拝せよ」「礼拝すべきだ」と意訳するくらいのほうがいい。

36 アルト「あなたは高いところに登られる」
この曲および次々曲のアリアは長調でもよいのではないかと思うが、第7曲のコーラスなどとならび、短調にすることによってそのなかで語られる歌詞が非常に尊いことのように感じる。ヘンデルの魅力のひとつである。なお、バス・ソロで歌われることもある。

37 「主は言葉を与えられた」
とても明快な一曲である。ロ長調の力強いアッコードが鳴りわたると、最初の2小節「主は言葉を与えられた」で主の存在がしめされる。つづいて「大群をなしているのは伝道者たちの集団であった」でみ言葉をたずさえた人々がしめされる。この2つの文章でこの曲はできあがっている。前の歌詞は男声合唱のユニゾンで幅広く無伴奏で歌われ、いかにも主がみ言葉をくださっているようだ。後の歌詞が全オーケストラをともなう全コーラスで16分音符を使って騒がしく歌われ、これまたいかにも大群が大きな責任をはたそうとしているようである。特徴として「company」の単語がとても印象的。

38 ソプラノ「なんと美しいことか、彼らの足は」
ここでもソプラノ・ソロが歌詞に一致して美しい高音域を響かせる。ここで歌われる「preach伝道する」は前曲の「preachers伝道者」のpreachと同一と考えていい。してみれば、前曲で描かれた大群の様子をここでは感動をもって「美しい」と歌いあげていることになる。短くはない歌詞だが、すべての単語が「How beautiful」につながる感嘆文であることを考えてもそれは理解できる。本来このようなナンバーは省いてしまってもよいものなのだが、ひとつのナレーションを置いておいて、次の曲でその場景に感情を加える、あるいはその場景をクローズアップさせる、というやり方が「メサイア」の特徴である。この感嘆文を加えたジェネンズ、またその感嘆文にこれだけの名曲を書いたヘンデルの才能にはいつも感心させられる。

39 コーラス「彼らの声は全大陸にとどき」
この曲には実にさまざまな要素が詰まっている。①まずおぼえておきたいのが「彼らの声」(むろん伝道者の)という言葉を「Their voice」ではなくて「Their sound」としている点である。単なる音声といった意味ではなく、「妙なる響き」のようなニュアンスになる。それはもう人間の声という類のものではなく、鐘の響きのような、残響豊かでサラウンド効果までもつものを想像することができる。②この曲の歌詞は「Their sound is gone out」となっている。実際に発音してみるとわかるが、「is」は別としてそれぞれの単語が二重母音になっている。単語そのものの響きがまた豊かなのである。③♭(フラット)が3つもつくホ長調に調性されている。響きにポイントが置かれる曲なのだから、音響効果を高めるためにニ長調などの♯(シャープ)系に調性されてもよさそうなものだが、ヘンデルはあえてここでそれほど響くとはいえないフラット系のホ長調にしておいて、そのかわりソプラノ・パートにAフラット、バス・パートにEフラットという異例の高音を、1・2箇所ではあるが要求している。フラットであるがためにこの高音が意外に歌いやすいのである。④冒頭はフーガで始まるが、ソプラノから低い音部へと1小節ずつずれながら規則ただしくおりてくる心地よい出だしである。⑤オクターヴにわたって1音ずつ下降する音形がくり返しあらわれる。「sound」が鳴りわたる様子を連想させる。聴きごたえ、歌いがいのある一曲である。

40 バス「なぜ国々の民衆はたがいに騒ぎたつのか?」
前曲のフラット系から開放されハ長調のフォルテではじまるので、とても新鮮である。低弦はオクターヴ和音でハ音の8分音符を奏しつづけ、メロディは分散和音によっている。新鮮を通りこして勇ましくさえある。歌詞の内容を考えるとここまで勇ましくていいのか、という感じがしてくる。最後はホの短和音で締めくくられ、勇ましさをたもったまま間髪いれずに次曲に突入する。(ダ・カーポする版もあるらしいが、もどらず次曲にはいったほうが断然いい)

41 コーラス「足枷をこなごなに打ち砕こう」
第37曲と第38曲の関係に似ていて、前曲でバス歌手によって疑問視された内容が具体的に描かれる。原語を直訳しただけだとうえに書いたようにわかりにくい題になってしまうが、言葉をつけ加えれば「(神が与えた)足枷(のような社会秩序)をこなごなに打ち砕こう」という、民衆の勝手きわまりない虚勢の声である。非常に早い上下動する8分音符が連続し、4分の4拍子と思いきや4分の3拍子をとるので(この拍子が虚勢を感じさせる)、リズム感をつかむのにひと苦労する。そのうえ数少ない序奏なしの曲なので、特に第一声を発するテノール・パートには技術が要求される。

42 テノール「天にいます主は彼らを冷笑される」
43     「あなたは鉄のつえをもって彼らを散らすだろう」
地上での勝手きわまりない喧騒が描かれたあと、天上の主が民衆をごらんになってその悪行を嘆くさまがレシタティーフで歌われ、その緊張感を持続させたままアリアにはいる。いわば主が降される仕置きのシーンである。序奏部でヴァイオリンの高音域で奏される動機はいかにも主がつえを振りおろしているようである。たとえれば暴れまわる羊を羊飼いが棒でいさめているような。この曲の緊張感は尋常ではない。その理由として、「打ち砕く dash」という単語にあてられた他曲にもあまりでてこない高いAの音が使われていることや、音符を短く切るスタッカートが全体的に多用されていることが考えられるが、それだけの理由ではないような気がする。「メサイア」をくり返し聴くうちに感じるようになるが、この緊張感は次にくる「ハレルヤ」という大曲への期待によってさらに強く押し寄せるものなのだ。

44 コーラス「ハレルヤ!」
周知のとおり「ハレルヤ Hallelujah」とは神を讃美する言葉である。キリスト教は讃美にはじまり讃美に終わる教えであることを考えると、この言葉の重要性がわかる。唯一絶対の言葉なのである。だから、ヘンデルがこの歌詞にこれほどの名旋律を付したことは、ある意味至極当然のことである。
曲は、あのおなじみの序奏にはじまり、コーラスがそれにつづく。「Ha-lle-lu-jah」の4つのシラブルについて、それぞれ4つのパートにふさわしい和声があてられ、オーケストラとともにとても壮麗な音楽を展開する。一番自然音にちかく鳴りやすいとされるニ長調であることも、この曲を壮麗でしかも親しみやすいものとしている。「Hallelujah」の言葉を10回歌い終わると、これまでそれぞれの旋律で歌っていたコーラスがユニゾンとなり「全能の神、主が統治なさるゆえに for the Lord God omnipotent reigneth」を感動的に歌う。属音から主音にあがり、また属音におりるという単純な曲想にもかかわらず、不思議な力強さをもっている。そして「Hallelujah」のシラブルと混ざりあい、すばらしいフーガを展開する。音色もトランペットとティンパニーを加えて拡大されている。ロンドン初演でイギリス国王をたちあがらせてしまった部分である。その後、第3のフーガ主題「and He shall reign for ever and ever」があらわれるが、これはヘンデル以前からあったコラールの引用である。ここには「for ever and ever」という重要な言葉が含まれている。曲の途中からは「King of Kings, and Lord of Lords」が加わり、最後には「Hallelujah」「King of Kings, and Lord of Lords」「for ever and ever」の3つの文節が複雑に、しかし手際よく混ざりあい、壮大な讃美の世界を作りだす。
「ハレルヤ」はヘンデルが作曲した膨大な数の曲のうち頂点に位置する曲といってさし支えない。知名度の点からも他のあらゆる曲に引けをとらない。では、この曲がこれほどの名曲となったのはなぜか。音楽が壮大だからだろうか。確かに「メサイア」のなかでもはじめてトランペットとティンパニーが登場するので、絶対音量から見ても「ハレルヤ」はヘンデルの曲のうち白眉のものといえる。しかし壮大だからと、単にそれだけの理由で名曲と考えるのは安易すぎる気がする。筆者はこの曲を聴くたびに感じるのだが、確かに壮大なこの「ハレルヤ」はまた耳になじみやすいメロディにあふれている。オーケストラの前奏の段階ですでに平明な音楽がさわやかな口調で語りかけてくる。コーラスの出だしは聴いているほうも思わず口ずさんでしまうような親しみやすさがある。いわば、聖人たちが本を片手に高い説教台のうえから讃美の言葉を連呼しているのではなく、信仰者の集団が手をつなぎながら聴き手と同じ目線で神を讃えているというイメージである。
「力強い音楽は作るが、その力強さは近寄りやすく、皆で一緒に喜びあえるものでなければならない」勝手な想像だが、ヘンデルのそんな声が聞こえてきそうである。もちろん「メサイア」全編にわたってそのような趣向が凝らされているのだが、ぜひとも親しみやすいメロディで人々を信仰に導きたいというヘンデルの証(あかし)が、特に「ハレルヤ」にこめられているような気がする。

●第3部
45 ソプラノ「私は知っている、私のあがない主が今も生きておられることを」
第3部の幕開きであるこの曲もまた非常に素直な一曲だ。歌詞は旧約聖書ヨブ記19章および新約聖書コリント前書15章からとられているが、「私は知っている I know」という言葉から始まるので、ソプラノが歌詞を追って歌っているのではなく、歌手自身があたかもひとりの信仰者として自らの信仰を告白しているような印象を受ける。その訴えかけは「たとえこの外身が責め苦で滅ぼされようとも内なる肉よって私は神を見るだろう」という強い意志のもと、素直で情熱的でしかも夢見るような性格をもっている。これを歌うとき歌手の目は天上の世界をむいているにちがいなく、そのため伴奏はゆりかごのようにゆれ動く付点音符を演奏している。終盤「今やキリストはよみがえられる now is Christ risen」の個所で聴き手は高みに引きあげられられる。前奏からたえずつづいてきた安堵感にみちた後奏で閉じられる。

46 コーラス「死というものがひとりの人間によってきたのだから」
これは特異な曲である。いろいろな演奏法があるが、たいがいは「death」までの部分をコーラスが無伴奏で歌う。引きつづいて「resurrection」の部分ではうってかわわって伴奏つきで力強く歌われる。この緩-急のパターンが再度くり返されるわけだが、2つセットになった2文節「ひとりの人間による死」「ひとりの人間による復活」「アダムによる死」「キリストによる復活」のそれぞれの対比がよくあらわれている。

47 バス「聞きなさい、あなたがたに知られざる事実を話そう」
48   「ラッパが鳴り響き」
バスによって歌われる名アリアとそれに付随するレシタティーフである。コリント前書15章52節で語られている「ラッパが鳴ると死者は復活する」という預言とそれにまつわる事実とを10分ちかくかけて歌いあげる。47曲の「知られざる事実 a mystery」(ふつう「奥義」と訳されるようだがこの言葉ではすこし理解しにくい)とはつまり「死者の復活」である。オーケストラが奏する持続和音のなか、その分散和音内におさまったメロディが歌われるので、いかにも「mystery」といった雰囲気が広がる。この持続低音もいつかラッパの音を模した音に変わり、アリアになだれ込む。第48曲、「ラッパが鳴り響き」を表現するごとく、「ハレルヤ」でも使われたトランペットが登場する。しかも前回とはちがい、トランペットがオーケストラの単なるアクセントとしてではなく主役としてソロを担当する。この輝かしい響きの楽器がここまで登場をひかえていたことにより「ラッパが鳴り響き」の歌詞に一致した金管楽器の音色がいっそう引きたつ。そしてオーケストラをバックにトランペットとバス歌手という2人のソリストがそれぞれのメロディを実にうまく調和させながら曲を進めていく。おもしろい視覚的効果としては、「かえられる be changed」の言葉だけが連続した8分音符であがったりさがったりしながら長く引きのばされるため、変容していくさまが目に見えるようである。「For this corruptible」以下は短調となりこれまでの理由が述べられる。おもしろいことに、先ほどは「be changed」に長く引きのばされる音形があてられていたが、ここでは「不滅の immortality」にこの音形があてられている。この言葉の永遠性をあらわそうとしているのか。この後、最初のラッパの個所に戻る演奏とこのまま終わる演奏があるが、次曲「死の克服」との関係を考えるとラッパに戻ったほうがいい。なお、前奏部分のトランペット・ソロは「水上の音楽」第2組曲の「アラ・ホーンパイプ」と曲想が似ている。特に最後の3小節はメロディがまったく同じである。

49 アルト「そのとき、書かれている言葉が成就するだろう」
50 アルト&テノール「ああ、死よ、汝の毒牙はどこにある?」
51 コーラス「しかし感謝は神に」
この3曲は、24から26曲目のような充実感はないにしろ、キリスト教の重要な教えである死の克服をあつかう、決して切り離せない内容をもつ3曲である。第49曲は次のアリアへの説明文である。そしていよいよ第50曲へ。初めて置かれる男女のソリストによる重唱。ふつうオペラなどで歌われる男女の重唱といえば、すべからく恋を語りあう内容であるが、この曲で2人のはたす役割は「死」に対してたたみかけるように疑問を投げかけることである。もちろんその疑問は逆説的なのであって、「死よ、汝の毒牙はどこにある? 墓よ、汝の勝利はどこにある?(いや、ないはずだ)」と、本当にいいたいのはこの否定語である。死の克服を実感した聴者は次曲で神に感謝すべきである。二重唱が終わったかと思うと、切れ目なしにコーラスにはいり、キリストを通じて人類を死から救ってくださった神に対してひとしきりコーラスが感謝の祈りをささげる。この二重唱とコーラスが切っても切れない曲同士であることは、両曲の間に切れ目がないことからも理解できるが、それだけではない。双方には対比させてみるとなるほどと思わせる要素がいくつかある。まず、幸いなことにそれぞれの冒頭の言葉「O death」と「But thanks」はイントネーションが似ている(発音してみるとよくわかる)ため、同じ形の動機でできていて両曲の統一がはかられている。そしてもうひとつ、二重唱の「victory」とコーラスの「our Lord Jesus Christ」の関係である。二重唱においては前述したように、2人がたたみかけるように「死」を質問攻めにするため、決して同じ単語を同時には歌わないのだが、唯一の例外が「victory」である。この言葉だけは2人が同時に発音する。一方コーラスにおいては、4つのパートそれぞれがさまざまな思いで感謝の言葉を口にするため、これまた同じ単語を同時に歌わないのだが、「our Lord Jesus Christ」の部分では必ず声がそろう。したがって両曲を通じて「victory」と「our Lord Jesus Christ」が際立って聴こえる。つまりは本当の「勝利」は死にも墓にも存在するものではなく「私たちの主、イエス・キリスト」にこそ存在するものなのだ、という気持ちを呼びおこすことに成功している。加えて、両曲に共通しているおだやかな雰囲気は、すべてを超越してしまったキリストの絶対的存在を暗示しているかのようだ。

52 ソプラノ「もし神が私たちのためにいてくださるのなら」
ここにいたってこのようなロ短調の曲があらわれるというのもなにか意味ありげである。次に「アーメン」をふくむ大曲が控えているので、ヘンデルには失礼だがそれを引きたたせる膝がわりととらえてもいい。しかし膝がわりとはいえ大切な曲であることにはちがいなく、「十字架につけられながらもよみがえられたキリストによって復活がもたらされ、しかもラッパが鳴ると同時に死をも克服できるという信仰を与えられた」という、これまでに培われてきた概念を、「(キリストが)私たちをとりなしてくださる (Christ) makes intercession for us」の言葉によって、私たちが敵対する者のいない状態で救われていることをさらに確信することができる。この美しいメロディをもつ最後の独唱曲を美しいソプラノのソロで聴けることも忘れてはいけない。

53 コーラス「ほふられた小羊こそ偉大であり」
「讃美と名誉、栄光と権力、彼のうえにあるように」
「アーメン」
「ハレルヤ」を中心にいたるところで讃美の曲を提示してきた「メサイア」の締めくくりは、やはり讃美一色に塗りつぶされている。救世主出現の預言を耳にし、その来臨にわき、その救いのわざを実感した私たちはもうすでに救世主および彼を与えたもうた神に感謝し讃美するほかないのである。
終曲は「アーメン」をあわせて3つの曲からなる。そしてそれぞれの曲がまた手のこんだ聴きごたえのある曲となっている。
まず「Worthy is the Lamb」の部分は幅広く力強いトゥッティにはじまる。歌詞と曲とが一致し、なにものにもかえがたい神の小羊こそ最大の栄光を受けるにふさわしい偉大な存在であることが、この重みのある曲想で理解できる。「ハレルヤ」と同じニ長調であることでまた、その事実が全人類的なものであることを実感できる。「to receive power」以下アンダンテの部分は神の小羊が受ける栄光の数々である。全体的に見ると第46曲と同じ緩-急-緩-急の形をとるが、そのメリハリのきいた緩と急がみごとで、理論的な46番にくらべ音楽的な充実感により讃美の勢いが心にせまってくる。
「Blessing」以下はわれわれ人類の祈りである。すなわち前部で並べられた数々の栄光を「神の御座にいます方と小羊とに帰する」部分である。フーガによっているが、コーラスの男声によって呈示される主題は前部におとらない直進的な鋭さと勢いをもって耳に飛びこんでくる。「ハレルヤ」でも聴かれた「for ever and ever」の言葉が印象的である。最後は解決しないまま属和音で次曲にわたされるわけだが、ff(フォルティッシモ)で鳴らされた属和音から荘重なニ長調に突入するこの瞬間には、ふつうでは得られない緊張感と崇高な気分を体験することができる。
かくして終曲「アーメン」をむかえる。この、キリスト教でもっとも大切な言葉が一般にはあやまってとらえられている感がある。なにか宗教的な感情やできごとに出会ったときに、あたかもキリスト者が呪文を唱えているといった感じで揶揄されることがあるが、この言葉は「真実であるように」という意味をもっているだけである。祈りや讃美の最後に、それが真実で心からのものであるという意味をこめて「アーメン」を唱えるのである。したがって、いよいよ最後となったこの終曲は祈りにも似たこれまでの私たちの数々の讃美を真実たらしめるはたらきをしている。前部のティンパニーの連打をともなった壮大な属和音を受けてコーラスのバス陣が、5小節にわたる威厳にみちた「アーメン」の主題を歌いはじめる。主題はすぐにテノールが受けつぎ、5度高い音域で対位法が展開される。5小節後にアルトが主調で、さらに5小節あとにソプラノが5度上で歌いはじめる。主調と属調を使い、バスによってはじまった主題が順々に高声部にあがっていくことで聴き手は崇高な安定感を覚えることができる。また通常、コーラスに加えて4人のソロもいっしょに歌う。ステージ上にいる演奏者が一体となって神に最後の讃美をささげるひとときである。コーラスとオーケストラが複雑にからみあいすばらしいフーガを展開しつくしたあと、減和音でゲネラルパウゼ(総休止)があって、輝かしい響きのなか、この2時間半にわたった大曲が閉じられる。
これまで見てきたとおり、「メサイア」にはこの時代の多くの曲同様、フーガが多用されている。しかしこの最終曲「アーメン」ほど充実したフーガの技法は他の曲には認められない。「メサイア」がオラトリオを代表するような名曲でありつづけるのは、「ハレルヤ」の全人類的な永遠性と最終曲「アーメン」の充実感があるからだと筆者は確信しているほどである。その充実感の具体的なところについては、すでにこのページが長くなってしまっているので割愛しまたの機会に考えるとするが、すこし方向性はちがうとしても、同じく充実したフーガを展開する「ジュピター」交響曲の最終楽章とならび、崇高な主題がみごとな計算によって和声上にからみあう大傑作だと思う。そのフーガのうえに、何度くり返されるのだろうか、「アーメン」の叫びがそれこそ未来永劫つづくかのように折りかさなって歌われる。演奏者ひとりひとりの讃美の気持ちがすこしでも神に届くようにと願っているからである。これまで53曲かけてつみかさねてきた救世主への思いを全人類が心をひとつにして「真実ならんことを!」と叫ぶひととき、その「アーメン」を「アーメン」たらしめているのが、この絶対的な終曲なのである。


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