グスタフ・マーラー:交響曲第4番 ト長調「大いなる喜びへの讃歌」

Mahler Gustav Gospel in Classical

もうかれこれ15年ほど前になるだろうか、日本に「マーラーブーム」なるものが到来したことがある。マーラーの交響曲がひっきりなしにコンサートで取り上げられ、マーラーの聴きかたに始まり、マーラーの魅力、演奏の仕方、その生涯など、さまざまな面からマーラーの再認識がおこなわれた。時まさに好景気のピークの少し前。その影響がクラシック音楽界にもおよび、赤坂のサントリーホールを皮切りに、都内のいたるところに演奏会ホールが建てられたし、そちらをハード面とすれば、ソフトの面でマーラーの巨大な交響曲が巷(ちまた)を楽しませていた。ちなみに「オペラブーム」なるものが到来したのもこの時期だったと記憶している。

一部のお堅い方々はこの現象を見て「マーラーの音楽を安売りしている」「ミーハーなマーラーファンが増えてしまう」と嘆かれたが、筆者はそれでもよいと思う。マーラーの作品は公平に見てベートーヴェンやモーツァルトのそれよりも親しみにくい。曲によっては100分ちかくかかるものもあり、これはどう考えても敬遠されてもしかたないものであろう。だからブームがたとえ一時的なものであろうとも、親しみやすい状態で人々の記憶に残りクラシックが広まっていけばそれはそれでいいことではないだろうか。それに何を隠そう、筆者もこのときのブームでマーラーファンになった一人なのである。

1990年の10月末、池袋に東京芸術劇場がオープンしたとき、そのこけら落とし記念として、指揮者ジュゼッペ・シノーポリが2週間ほどかけてマーラー・ツィクルス(マーラーの11曲の交響曲全曲演奏)をやった。筆者が聴いたのがこのシリーズの第1番と第5番であったが、マーラーの音楽に感動するというよりは、マーラーの音楽がこれほど多くの人々を動かす威力をもっていることに非常な驚きを覚えたものだ。むろん心を打たれたのは筆者だけではなかったようで、これ以降2・3年の間、インバル,ベルティーニ、それに日本の若杉弘といった指揮者たちが競ってマーラーの名演をくり広げていた。マーラー自身、その前衛的な作風のため生前はかなり酷評されたりしたらしいが、自分の曲に自信を持ち「いつか私の時代がくる」といい切った。少なくとも日本ではこの時期にマーラーの時代がきたといってさしつかえないだろう。

しかしながら彼の曲は、演奏家にとっても聴者にとっても、とっつきにくいのも事実である。なぜか?

その第一の理由としてまずなによりもその巨大さが一番の原因と思われる。ダイナミックかつ特殊な音色を追求するあまり、オーケストラの編成はベートーヴェン以降、マーラーで最大限に膨れあがったし、演奏時間にしても1時間を越えるものはざらにある。編成の大きい曲の例としては第8番の「千人の交響曲」があるし、長時間の曲の例としては第3番の1時間半強というのがある。クラシック・ファンでさえ神経を集中させることが必要となるマーラー。ましてや初心者のための入門曲としては考えにくい。

第二の理由として考えられるのは、その曲の性格である。マーラーは音楽史のなかでロマン主義作曲家として位置づけられ、実際にロマン派以外のなにものでもないのだが、彼の曲の中には未来を先取りしたような近代的な楽想が多く見受けられる。和音や楽器の扱いかたはそれまでにない新しいことをやってのけているし、形式的にも交響曲の伝統である4楽章制におさまっていないものが多い。この21世紀という新時代においてもなお音楽ファンの基本はやはりバッハ,モーツァルト,ベートーヴェンらが生み出した、整った形式の、流れるようなメロディーをもった曲なのである。新しい感覚のマーラー作品がいまひとつ受け入れられていない理由のひとつと思われる。

では、このマーラーの特異性はどこからくるものか? ひとくちにいってしまえば、彼自身の人生観そのものが盛り込まれていることから起こっているものと思われる。というのは、例えばベートーヴェンが自分の信念を音楽にたたき込み、明確な主題と論理的な展開と断定的な結論をもって交響曲をあたかも論文のように創りあげたのとは違い、マーラーは人生で感じる喜怒哀楽をそのまま音楽に組み入れるということをした。時にはその喜怒哀楽を乗り越え、死後の世界にまで足を踏み入れることもしばしばであった。つまり、「運命」交響曲のようにまず運命の主題があり、それを徹底的に展開し、ひたすら勝利に向かって突き進むという猛進型ではなく、美しく歌わせたかと思えばすぐにおどけた旋律が顔をだし、静かなしじまが続くかと思うと次の瞬間には強烈な爆発があり、おごそかなフレーズが流れていると思うといつのまにかコミカルで皮肉たっぷりの雰囲気になったりと、マーラーの曲はさまざまな要素を複雑にからみあわせてあちこち徘徊する。そのため、指針というか一つのポイントを求めている聴者にとってはマーラーの交響曲は風景が変わりすぎるのであろう。

しかしながらマーラーの交響曲は、一度でも知ると取りつかれてしまうような魅力もまた持ち合わせている。その魅力の大きな理由はなんといっても随所に現われる美しいメロディーだろう。マーラーは生涯“歌”を忘れることのできない人物だった。子供のころに口ずさんだ民謡に愛着を覚え、豊かなメロディー、時には人声そのものを交響曲に盛り込み続けた。また別の魅力としてはその最弱音から最強音までを幅広く使う音響効果もある。彼はそれまでにはない大オーケストラを駆使していろいろな効果をあげている。録音業界風にいえば、ダイナミックレンジの音楽を創りだしたのである。一回の演奏会で何十本という金管楽器を動員してダイナミックな咆哮をさせる反面、ソロ楽器を活躍させ繊細な響きで聴き手の胸に迫ることもしばしばである。

このようにマーラーの魅力はそれぞれの曲の中に相反する性格が同居するところにあり、最初耳にすると奇異な曲に感じるかもしれないが、聴き返すうちに、山あり谷ありに彩られた人生そのものを見ているようで、聴く人すべてが共感できる内容になっている。

マーラーの交響曲のなかで親しみやすい曲の代表といえばやはり第4番「大いなる喜びへの讃歌」だろう。時間的にも50分という、彼の交響曲のなかでは短い部類であるし、その曲の性格がまた素朴な明るさに満ちているからである。この曲の生い立ちは少し変っている。マーラーは、ドイツに古くから伝わる「子供の魔法の角笛」という民謡に日ごろから愛着を感じており、この民謡をもとに曲を書きたいと考えていた。そしてこの考えがみずからの交響曲観と結びつき、この民謡の曲想を第2交響曲,第3交響曲のところどころに引用した。その第3番の6つの楽章を作曲し終えたマーラーはさらに第7楽章に「子供が私に語ること」と名前をつけ作曲を続けようと意気込んでいたが、6楽章までで演奏時間が100分に達することからさすがに冗長になると考え、「子供どもが私に語ること」は次の交響曲に生かすことにした。4番目の交響曲はこのタイトルをもとに、神に守られた天上の幸福な世界の様子を、天使の声よろしく子ども(曲中ではソプラノ・ソロ)が嬉しそうに歌い上げる、という設定になっている。このようにして生れたのが交響曲第4番「大いなる喜びへの讃歌」である。

マーラーがこの詩にどれだけの思いを寄せていたかは、この第4番の形式を見てもわかる。彼はこの詩に基づく曲を第4楽章に位置させ、始めの3楽章をこれに付随させるようなイメージで作曲を進めた。ふつう、ひとつの交響曲で一番大切なのが第1楽章の主題であり、これをどのように展開させ、後の楽章でこれをどのように受け止めるかが全体の流れになるものだが、この第4番ではそれが逆になっている。つまり一番最後の第4楽章に向かっていくうえでの準備の段階が始めの3楽章なのである。むろんこの3つの楽章が劣っているわけではないが、それを第4楽章を引き立たせるための楽章にするところがマーラーのおもしろいところであり個性あるところでもある。いずれにせよこの曲は、「喜びの楽章」第4楽章を中心とした、聴くだけで喜びを感じることのできる不思議な曲である。

余談であるが、以前友人から「マーラーの交響曲を聴いてみたいと思うが、どのような順で親しめばよいか」という変わった質問を受けたことがある。なるほど、マーラーの交響曲ともなると、ある程度順番を考えたほうがいいかもしれない。筆者なりの順番――もちろん親しみやすい順番――を考えてみた。

最も親しみやすいのが今回の4番と1番「巨人」、マーラーの世界はこのあたりから入るのがいいだろう。4番を聴いたとなると次には2番「復活」,3番「夏の交響曲」を聴くといい。2,3,4の3曲は三部作だからである。5番は一匹狼のような性格があるのでいつ親しんでもよいと思われるが、6番以降に移る際の準備にはなる。6番「悲劇的」と7番「夜曲」はこれまた一緒に聴きたい。この2曲は双生児だからである。残る傑作3曲は、まず純器楽曲の9番に親しむのがいいだろう。それから歌曲集的な性格を持つ番号なしの「大地の歌」を聴いておいて、最後にマーラー作品の集大成である8番「千人の交響曲」にいく。以上が、一筋縄ではいかないマーラー交響曲の筆者なりのおすすめの順番である。ちなみに傑作(になる予定だった)、第1楽章のみの未完成作品第10番「アダージオ」は何かのときのBGMにどうぞ。

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