アルカンジェロ・コレッリ:合奏協奏曲第8番「クリスマス協奏曲」

Arcangelo Corelli Gospel in Classical

今年もまたクリスマスの時季である。あの、何歳になっても心ときめく思い、街中がきらびやかに飾りつけされるにぎわい、クリスマスはいまもむかしも変らない独特の風情をもっている。これで、クリスマス・イヴに教会に集い、さらに雪でも降ろうものなら最高のシチュエーションである。

といって、12月に入ってからあらためて「クリスマスの時季である」と書くのもすでに遅いような気がする。ニュースで見たところでは、いまからもう1ヶ月以上も前に街中で巨大ツリーが飾られた。11月のなかばにはサンタクロースの衣装を着たサンドイッチマンが街頭に立っていた。なんだか日本のクリスマスの準備は年々早まっているような気がしてならない。そのうち、1年中クリスマスの準備をしている、などということになりはしないだろうか。

こうしてみてみると、日本人のイベント好きな性格はこのクリスマスで顕著に現われるように思う。クリスマス・イヴに向けて異常ともいえる情熱で気持なり装備なり、その雰囲気を整えていくからである。欧米人が日本人を見て首をかしげるのが、このクリスマス熱とクリスチャン人口の少なさのギャップをみてだそうだ。加えてクリスマスが終わるとツリーがいっせいに門松にとって代わるそのすばやさ、日本人の生真面目さと没個性が同時に見えてくるという。日本人がいかにイベントそのものに力を注いでいるかがよくわかる。

音楽界でも日本人のイベント好きな性格はやはりクリスマスの時季に現われる。年末行事としてあきるほどくり返される(「すっかり定着した」などというレベルを通り越しているのでこの言葉はあえて使わない)演奏曲目として誰もが思い浮かべるクラシックが「第9」である。このご時世でいくらか下火にはなったが、以前数えてみたらバブル期には東京都内だけで12月中、200余も演奏会があった。一晩平均都内の7~8箇所で同時に「第9」が鳴っていたことになる。むろん「第9」自体は人類が生んだ最大の名曲であり、それにベートーヴェン最後の交響曲だし、「喜びの歌」が歌われるので年の瀬のイメージにぴったりということだろうが、それにしても特に年末を題材にした音楽でもないのになぜ年末にかぎって受けがいいのか不思議だ。ちなみにこれは日本国内だけでの現象である。

ヘンデルが残したオラトリオ「メサイア」も「第9」ほどではないがクリスマスによく演奏される。イエス・キリストの生涯を、巧みに配置された聖書の言葉とヘンデル独自の豊かな曲想で追っていくこの名曲は確かにクリスマスの雰囲気をもりあげるのにはうってつけである。しかし見方を変えればこの曲もまたイエス誕生の預言に始まりその降誕,苦難,磔刑,復活と昇天と、その生涯を大局的に描いているのであって、その焦点はクリスマスに限っていないのである。

このほか、クリスマスに直接関係のない、いわばクリスマスの雰囲気をもりあげるための多数のオルガン,コーラス,ハンドベル曲がステージを飾りソフトとして売り出されている。

そんななかにあって、作曲者自身が信仰をもって作った本当の意味でのクリスマスのための曲というのは貴重な存在だと思う。なぜなら、クリスマスに演奏される音楽というものは、その情緒ばかりが人の耳を引くものであってはならないし、また逆にいくらクリスマスの意味を押さえていても構成がしっかりしていないと人の心をそちらに向かせないからである。こういったことを考え合わせると、現在でもひんぱんに演奏されているクリスマスの名曲、コレッリの「クリスマス協奏曲」は素晴らしい一曲だ。宗教的な香りと気高さにつつまれていて聖潔を感じさせるし、何よりもコレッリ自身が「キリスト降誕の夜のために」と記しているほどだから、まさしくクリスマス・イヴに鑑賞するための曲なのである。
コレッリはバッハよりも30年ほど前にイタリアで生れた作曲家である。生前は作曲家というよりはヴァイオリンの名手として知られた人で、同じイタリア出身の、「アダージオ」が知られているアルビノーニや「四季」でおなじみのヴィヴァルディなどの師匠筋にあたる音楽家であった。そしてヴァイオリンをかたときも離さず演奏し、この楽器を心から愛するあまりついにはヴァイオリンのための協奏曲を作曲するにまでいたった。このようにヴァイオリンの演奏に生きがいを感じ、作曲はその結果でしかなかった静かなる信仰者コレッリが作曲した数少ない作品中、もっとも内容が充実し知名度もある曲が合奏協奏曲「クリスマス協奏曲」である。

この「協奏曲」という音楽ジャンルは、形式的に明確な定義ができないほどさまざまな形のものが存在している。それは、2つ以上の楽器が同時に演奏されればもうそれが「協奏曲」であって、1500年ころにこの形式が考案されてからというもの、合唱曲からリコーダーの重奏にいたるまで多くのジャンルが「協奏曲」としてまとめられてしまったからである。このようにもともと明確な定義をもたず、「協奏曲=音楽」という具合に考えられていた時代もあったりするほどで、いつの時代にどういう作曲家によって作られたかで協奏曲は形式的にずいぶんちがってくる。

「協奏曲(concerto)」なる名称で音楽が作られたのは16世紀初頭のイタリアが始まりとされる。この時代の協奏曲は合奏的なものが主流で、その起こりは、単独の楽器を使って演奏家がひとりで演奏していたのがそれではものたりなくなり、いつのまにか異なる種類の楽器と集団を作って和音を奏で始めた、と考えればわかりやすい。「合奏協奏曲」とよばれる曲が数多く作曲された時代、協奏曲の草創期にあたる。
さて、そのような合奏集団が出現し始めたが、複数の演奏者が和音を奏でる場合にはその内部で全体をリードする存在が当然必要となってくるわけで、その役目は必然的に主旋律を受けもつヴァイオリンなどの楽器が引き受けるようになった。集団の一員ではあるがときどきソリストのように技巧的なメロディを演奏するように作曲も工夫されだしたのである。ソロ協奏曲の始まりである。 そしてソリストの技術も時代とともに向上し、楽器自体にも次々と改良が加えられ、また特に18世紀にピアノという画期的な鍵盤楽器が発明されると、集団のなかの主旋律を受け持つ楽器をさらに独立楽器として扱う考え方ができ始めた。こうして、大きなオーケストラをバックにヴァイオリンやピアノがステージの客席よりで華麗なテクニックを披露する現在の協奏曲の形が、古典派のハイドンあたりで確立された。

今回のコレッリは協奏曲の草創期を受け、その情熱的ともいえるヴァイオリンへの愛情にも支えられて合奏協奏曲の発達に力を注いだ人である。ソロ協奏曲への発達にまでつながることを考えるとその功績は非常に大きいといえる。ちなみにコレッリの形式を受け継いでソロ協奏曲を創始したとされるのがコレッリと同国、同時代に活躍し、名前も似ているトレッリであった。現在でもクラシックの重要なジャンルである協奏曲はこの2人によって基盤が固められたといっていい。

コレッリの作った作品の数は述べたように決して多くない。また聴く人の耳を驚かせるような派手な演出もない。しかしそれは、協奏曲というものは一朝一夕にできる安っぽいものではないというコレッリの音楽に対する真摯な態度、またヴァイオリンに対する特別な愛情からくるものであって、彼の協奏曲を静かな気持ちで聴いたとき、その音楽に聴き手の気持ちを神の方に向かせる信仰が働いていることに気づく。

この殺伐とした世にあってもクリスマスの時季はやってきた。人の心が乱れ、争いが増えているこの時世だからこそ、本当の愛を世界に教えたイエス・キリストのお誕生をお祝いしたいと思う。その気持ちの現われとしてもコレッリを鑑賞してみてはいかがだろうか?

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